楽しいことを追い求めればいい。でも、楽(ラク)しちゃダメだよ。
こんにちは。24カクです。
最近、筋トレがますます楽しくなってきました。
筋肉は裏切ることなく、鍛えた分だけ付いてきてくれる。これは素晴らしい。
もちろん食事管理に始まり、十分な睡眠と休養(筋トレ頻度)、正しい筋トレフォーム、筋トレメニューの検討等々、筋肉をしっかり成長させる前提は色々とあります。
それら全ての努力が、「筋肉の成長」というわかりやすい形で目に見えるのは単純に嬉しいし楽しい。
ぼくの場合はムキムキ指向なので、カロリー収支プラスでだんだん筋肉が大きくなっていくのですが、これはダイエット・ボディメイク指向の方が正しい筋トレを継続した時に、体重と一緒に体脂肪率(という目に見えるもの)がドンドン落ちて行く感覚と似ているんじゃないかな。
筋トレは人生の醍醐味を教えてくれる
筋トレは人生の醍醐味を教えてくれる。最近ほんとにそう思ってるんです。
それは、辛さや苦しみ、痛みのないところに達成感や充実感、思わず雄叫びをあげたくなるような喜びは存在しないということ。
刺激のない、安定だけの世界にはそれ相応の退屈しかないということ。
だって筋トレなんて辛いことばっかりです。トレーニングしてる時間の9割以上は辛い。トレーニング中は、楽しいなんて感覚はほぼありません。肩や腕や腹筋など限定的な筋肉だけを鍛えてる時は身体にも余裕があるので追い込みが楽しいなんて感覚もなくは無いけど、バーベルスクワットやベンチプレスや懸垂などの大種目をやってる時はほんとに辛いだけ。全身の力とエネルギーを使い切ってひたすら高重量に立ち向かう。そして「このしんどい種目がまだ4セットも残ってるのか。。」という憂鬱だけがある。
でも、そんなツラいことを黙々と続けてるんですよね。
ツラい苦しい痛いの先に達成感が待ってることを知ってるから。
充実感というものが、タダで与えられるものではないことを知ってるからです。
人生もきっとそうですよね。
これまでの人生振り返ってもほんとにそうだなって思うことばかりです。
楽しいことを追い求めればいい。でも楽(ラク)しちゃダメ。
数年前、腰の激痛に耐えながらも3泊4日のテント泊登山を全うした時、山頂に登りきった時、思わず雄叫びを上げてガッツポーズをしたことがあります。その時は身体の一番奥の方から爆発的な喜びが込み上げてきて、思わず叫んでしまった。
仕事が全く上手くいかず、結果が出ずにヨーロッパのお客さんのそばに半年ほど張り付いていた時。精神的にやられそうになりながら最後の最後で結果が出た時には、ぼくの中の全て、文字通り全身が喜んでるのを感じました。
いつもそうなんですよね。
苦しみのないところに、痛みのないところに、憂鬱のないところに、ほんとの喜びなんて無いんだと思います。
一度きりの人生、思いっきり楽しめばいいと思うし、楽しいことを追い求めればいいんだと思う。
でも、ほんとに楽しいこと、ほんとに楽しいという感覚は、楽チンの先には無い。
楽チンの先には退屈しかない。もっと言えば「自分の可能性を粗雑に扱った」という後ろめたさと疲労感だけが残る。
楽しいことは楽チンの先には永遠に存在しない。
達成感や充実感、雄叫びをあげたくなる喜び・熱狂という人生の楽しみは、いつもツラさ苦しさ痛みと憂鬱の先にある。
それは、ツライことから目を背けず自分の可能性を信じたから。
そうして自分自身を大切にしたから。
楽しさ、熱狂の源泉はいつもそこにあると思います。
まずは自分本位に生き抜こう。中国の逞しさと濃密さ。
こんにちは。24カクです。
久しぶりに仕事で上海に来てます。お客さんとの打合せが無事に終わって上海の空港でフライト待ち時間。
去年の夏明けからタイの案件にどっぷり浸かってた関係もあり、中国のお客さんを訪問するのは約半年ぶり。久々に旧知のお客さんにお会いして、「会うの3年ぶりだね!」と、とても皮肉とは受け取れない素敵な笑顔と食事に迎えられ。
タイの案件で、欧米系のお客さんを相手にしてたのとは全く違う打ち合せの様子。こっちが説明してるのに、お客さん同士自由に内輪で会話してるし、一旦議論が始まるとワイワイガヤガヤ内野からも外野からも色んな意見が出て言いたい放題みたいになるけれど、最後はそんなに細部を詰めなくても全てを書類で残さなくても、いい意味で大雑把な感じで物事がバシバシ決まっていく。
そうそう、中国ってこんな感じだったなーって。
この感覚、懐かしいって感じでした。
欧米人は書類での合意事項が全て、契約が全てですから。何度か一緒にビールを飲みに行って少しは関係が築けたかな、なーんて思っててもいざ仕事になれば「これはこれ、それはそれ」の世界です。責任の所在をはっきりさせる上では良いんですけど、裏返せばグレーな部分や曖昧さを出来るだけ排除しましょうという前提なので、窮屈さを感じることもしばしば。
その点、中国は人と人との関係性が何より優先みたいなところがあって、「困ったらこの人に!」という人と関係性が保てれば、ある程度日本のように「持ちつ持たれつ」な関係を築けるところがあるかなと思ってます。ただ、酒席はかなり大変。酒は決して弱くないのでトコトンまでお客さんの「一気飲みオモテナシ」を受けますが、仕事の大切な話は大概がお酒の場で出たりするのでこっちは酔えないし必死です。まさに「身体を張って」の世界ですね。
生きる力と逞しさと濃密さ
前置きが長くなりました。
中国にいるといい意味で肩の力が抜けるというか、「とりあえずは自分自身のことと、家族や身近で大切な人のことを優先して考えればそれで良し」と思えること、そして、「生きる力」や「逞しさ」という言葉を思い出させてくれます。
とりあえず自分を大切にすればいいや。他人に気を遣うより前に、まずは家族や身近な人に意識を向けてエネルギーを注げば良いんだという基本に立ち返らせてくれる。何はともあれまずは逞しく生きなきゃという原点に戻らせてくれる。
そんな気がします。
そりゃ買い物や何かで列に並んでてもしょっちゅう割り込まれるし、身体ごとブツけられたら謝られるなんてことは起こりません。新幹線に乗れば、その音量はナシでしょ。。という立派な音量でスマホで動画見放題なんて方もいるにはいます。
ぼくも「他人に迷惑かけちゃいけません」文化と世間で成人まで過ごした日本人ですから、最初は、何じゃこりゃ。。という大きな衝撃がありました。
20歳くらいの時に友達と2人で中国を寝台列車で旅行した時。家から大きなゴミ箱を持ち出して来て道端にドサーッと中のゴミをそのまんま捨てて何事も無かったかのように家に戻るお母さん。。寝台列車の向かいのベットから、ひまわりの種の食いカスをリズム良くガンガン放り投げてくるおじさま。。
異文化理解なんて生易しい言葉では表現できない強烈な刺激でした。同じような顔してんのに。。こんなに行動様式が違うなんて。。そのあまりの堂々とした姿にぼくはある種の感動を覚えてしまった。あっぱれ、これは凄いと。
同じ旅行中、西安の有名なお寺を観光していたら、日本語勉強中です!という同い年くらいの中国人と仲良くなって、勢いでその家庭にお邪魔して夕食をご馳走してくれた。具無し包子に始まり、前菜、餃子から炒め物各種、もう死ぬほどお腹いっぱい食べさせてくれました。見ず知らずの異国の学生をここまで歓待してくれるのかと、これまた感動してしまった。もてなしてくれた料理は忘れてしまったけど(ごめんなさい!)、近所に住む親族みんなで迎えてくれたその温かい雰囲気と濃密な時間は今でもしっかりぼくの中に残ってます。
まずは自分本位に生き抜こう
今回の出張では、そんな中国のエネルギーと濃密さに久しぶりに触れることが出来た気がします。
- これからどうなるかわからない時代、トコトン逞しく生きなきゃ。
- 何だかんだゴタク並べてる暇があったら、まずは自分と周りの身近な人が生き抜くことを考えないと。
- そう、まずは自分本位でいいんだ。他人との関係性の中にぼくらは生きてるって言っても、「生きる」って行為は本来は自分や家族のためにあるはずだって。
世界には色んな人がいる。
だから面白い。
そこからもらえる刺激は何物にも変えられないなって思います。
今を生きる。それは子供がいつも実践していること。
こんにちは。24カクです。
禅、瞑想、マインドフルネス。
色んな名前がついてますが、呼吸を整えることと、過去でも未来でもなく「今」に意識を集中するという点は共通してると理解してます。雑念を追い払って、あるいは上手くコントロールして、「今この瞬間」に意識を集中する。
結果、リラックス感と生きることの感性を上げる。
でも、これって子供がいつも実践してることなんですよね。
今日、娘の体操の習い事を見ながら、「今を生きる」というメッセージの込められた人気ブログの記事を読んでたんですね。そしたら、目の前で体操をやってる娘が以前出来なかった技が出来るようになって、その時の嬉しそうな顔を見て。
体操が終わって、やったやん!から始まって今日はどうやったら上手くいったのか聞いたら、それはそれは嬉しそうに顔を輝かせながら色々と話してくれました。
やった、出来た!嬉しい!という「今」を一生懸命表現してくれた。
そんな娘を見ていてぼくも嬉しかったし、何より輝いてました。
子供はいつも今を生きている。
考えてみたら、小さな子供っていつも「今」を一生懸命に生きてるんですよね。
オセロがしたい、公園に行こう、一緒に縄跳びしたい、見て見て!攻撃、今日は絶対にアイスを食べたい!
気分の乗らないことは何を言ってもらやらない。かと思えば、素直にぼくの家事を手伝ってくれたり。
納得いかないことがあってさっきまであれだけスネてたのに、楽しそうなことが目の前に現れた途端、一転パッと顔を輝かせてスネてたことすら一瞬で忘れてしまう。
まさに、今その瞬間を生きている。
素敵だなーって思います。
いい意味で執着が無いし、あれこれと未来の余計なことを考えて不安になるなんて事がない。
目の前のことに没頭する。集中する。そうして自分の好きなこと、興味のあることに神経の全てを注ぐ。
ヤなことは絶対にイヤ。納得いかないことはとことん納得いかない。したいことは今すぐ絶対にしたい。そうして自分にウソをつくことなく、自分の今を素直に全力で表現する。
まさに自分もこうありたいという、理想の姿だなーって思います。
大切なことは子供が教えてくれる
周りに合わせたり、他人の目を気にしたり、好きな事が分からずモヤモヤしたり。そんなところが微塵もない。
リラックスして、感性そのもので生きてないとこうはなれないなって思う。
禅や瞑想やマインドフルネスも素晴らしいと思うけれど、今この瞬間を生きるお手本はいつも目の前の子供が見せてくれてる。
大切なことはいつも子供が教えてくれる。
何かに迷ったら、子供の生き方こそ一番のお手本になると思います。
子供は親の言うことなんて聞かないくらいで丁度いい。
こんにちは、24カクです。
ぼくには小1の娘がいて、子育ての記事を時折書いてます。
過去の記事を読み返してみて、「うん、やっぱそうだよな」と改めて思えることが多く、子育てに対して思ってることは多分ブレてないんだろなーって思います。
それは、
- 子供はひたすら温かく見守ってあげれば、その生きる力で自らすくすく育っていくという信念であり、
- その意味で「子育て」「育てる」なんて言葉自体がおこがましいという感覚であり、
- 子供の純粋さが自分に新しい世界と可能性を見せてくれるという思いであり、
- 子供の可能性は、大切にしてあげればどこまでも無限に広がっているという発見であり、
- だから、一人の大人がその偏見に染まり尽くした偏った言動で子供の可能性を阻害してはいけない、という戒めです。
娘をぼくの型にはめるなんて行為は娘の将来に対して失礼過ぎると思うし、生活上の最低限の習慣を身につけてもらうこと、「ありがとう」「ごめんなさい」と他人に優しくすることの意義を伝える以外は、ハッキリ言って意識的な「しつけ」なんて要らないと思ってます。
子供に注意をすることがあるとすれば、自分や他人に危険を及ぼすこと(かもしれない行為)ぐらいではないかと思ってます。
だって、
親がガヤガヤ余計なこと言わなくても、世間に出れば学校やら何やらでガヤガヤ言ってくる大人は放っておいても沢山いるんだし。
親が心配してることは子供は直感で瞬時に分かってるんだからそれ以上余計なこと言わないで大丈夫なんだから。
子供の生きる力を信頼する
ぼくは、子供の生きる力みたいなものと、その底知れぬ可能性の大きさを全面的に信頼しています。
育つのは子供自身であって、親が育てるのではない。
親に出来ることは、子供目線で「親の愛情」として記憶に残る時間を残してあげることだと思ってます。
だから、子供にとっての「迷惑千万な」しつけ時間があるなら、自分の時間の許す限り目一杯一緒に遊んで一緒になって楽しめばいい。
公園で一緒に木登りしたり、子供の好きな運動や習い事にトコトン付き合ってあげたり、たまには一緒に簡単な料理をしたり、お風呂でじゃれあったり、寝る前に絵本を読んであげたり。
そんな日常こそが親にできる、素朴かつ最大の愛情表現だと思ってます。
子供は親の言うことなんて聞かないくらいで丁度いい
子供は親の言うことなんて聞かないくらいで丁度いいんだと思います。
だって、
それは子供が自分の気持ちを表現できてるってことだし、ちゃんと親に甘えてるってこと。
とっても健全な姿だと思う。
親に注意されて、「やだよー!」なんて言って親の言うことを聞かない子、それを温かい目線で見守る親。公園でそんな光景を目にすると、この上ない安堵感を覚えます。
逆にビシッと一発でシュンと言うこと聞くような子を見たら胸が痛い。(勝手に、ですが)。この子はちゃんと自分の気持ちを表現させてもらってんだろうかと心配になる。
- ひたすら温かく見守っていく。
- 何か言いたくなっても、できるだけ我慢して待ってあげる。
- 少しの時間でいいから、一緒に過ごす時間を濃密なものにする。
親も忙しいから決して簡単なこととは思わないけど、でも、親がしなくちゃいけないことってそれくらいなんじゃないかなーって思います。
子供が親の言うことを聞かないのは、
大切な可能性の芽をすくすく育ててる真っ最中、
そのサインだと思います。
だから、
子供は親の言うことなんて聞かないくらいで丁度いい。
過去の子育て記事も合わせてどうぞご覧下さい。
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限界を知り、高みを知る。
こんにちは。24カクです。
普段、筋トレをしていて思うことがあります。
何のためにやっているのかということ。
筋トレを続けるメリットというのはすぐに思い浮かぶだけでも色々とあって、自分の肉体が思うような形に少しでも近づいていくこと、それによる自信、やる気、トレーニング後の爽快感とリラックス感、そして健康を手にできる事。
心身を整えるという意味では、筋トレする事で「人として本来の姿に戻っていく」ような感覚さえあります。
肉体の変化という点では、最初のうちはビギナー特有の成長の早さもあって、筋トレの効果をモロに実感。嬉しくてガンガンやってました。仕事が終わってジムに行くのが楽しみで仕方なかった。筋トレのフォームやメニューの組み方、頻度についての勉強はもちろんのこと、タンパク質の摂取量や摂取タイミングを含め食事内容にも注意を払ってましたし、サプリメントについても沢山勉強して色々と試してました。
でも、「トレーニング」「栄養」に加えてもう一つの大切な要素「休養」への配慮が甘かった。
筋トレを初めて半年ぐらい経った頃、筋トレ中に思い切り腰を痛めてしまい、その後2ヶ月ほどまともにトレーニング出来ない状態になりました。肉体の疲れの抜け切らないままにガンガンやり過ぎたんですね。
その時の腰痛は本当の激痛で、朝起きてもベッドから立ち上がることさえできず、激痛に耐えながらやっとのことで立ち上がっても腰に全く力をかけられないため歩き方が分からず、家の中でほんの数歩進むにも困難を極めました。痛めてから数日間はほんとに何も出来なかった。
限界を知りました。
限界を知る。
腰痛が癒えて、再開した時。もう情けないくらいにバーベルが上がらない。腰痛になる直前には普通に上げていた重量が重すぎて全く上がらない。しばらく使わない神経は退化します。
なんだ、自分はこんなもんかと。
いい意味で、自分の限界を知った。
今でも出張なんかが続いてしばらくまともな筋トレが出来ない期間があると、退化の進行を実感します。
結局、一人の生身の身体で出来ることには限界がある。
そんな当たり前で大切なことに気づくことができた。
そして、
その時点での限界を知るからこそ、限界=壁の先にある高みを知ることが出来る。
限界を知ることで、そこに成長の余地を見ることが出来る。
大きな気づきを得ました。
高みを知り、そこに近づく意味。
じゃあ、成長の余地って一体何なのか。高みを知る、そこに登るというのは一体どういうことなのか。
隣で筋トレしてる人がもの凄い高重量を挙げていて、いつか自分もそれに追いつくこと。。ではないんだろうな。
そうではなくて、あくまでも過去の自分が叶わなかった重量が挙げられるようになること。。
という狭い世界だけもなく、
過去の自分には出来なかったことが出来るようになる、
その意味は、
過去の自分には見えてなかった世界が見えるようになることなんだと思います。
筋トレを例にとっても、その目的なんてほんとに人それぞれ。腰痛明けのリハビリ目的で軽い重量しか扱わない人もいれば、変なフォームなんてお構いなしにただジムで汗を流すことが気持ちいい、なんてこともあるはず。
そんな当たり前のことが見えるようになる。
トレーニング中の怪我やら、翌日の筋肉痛といった痛みや苦しさも含めて、結局みんな自分の納得に向かってやってるだけなんですよね。痛みの先にある光を見たい、という思いも含めて。
それぞれ個別の背景と事情を抱えている。
「多様性」の意味を知る。
寛容になる。
「限界を知り、高みを知る」
その究極の意味はそんなところにあるんだと思います。
自宅スクワットでボディメイクは難しい。オーバーロードの原則。
こんにちは。24カクです。
前回のダイエット・ボディメイク関連記事では、消費カロリーが摂取カロリーを上回る状態、つまり体重減少の前提で「正しい筋トレ」と正しい食事管理を続ければ美しい体型になると書きました。
「正しい筋トレ」の原則とは、一言で表すなら強度が全て。
この「強度」というのは具体的に言うと、以下となります。
1. オーバーロード
2. 適切な重量と回数
3. トレーニング中 短時間の休憩。短時間でのトレーニング。
今回はこのうち、1.オーバーロードについて見ていきます。
ちなみにこれも過去記事で繰り返し書いてますが、体重減少の状態でいくら筋トレしてもムキムキになんてなりません。体重が減る局面では脂肪とともに筋肉も落ちていくからです。
ダイエット中の筋トレの目的は、負荷のかかる筋トレにより「身体にとって筋肉が必要だ!」というメッセージを与え、減りゆく筋肉を出来るだけ維持することです。
体重と筋トレの関係については、以下記事も合わせて参照してみてください。
オーバーロードとは
筋トレの基本原則。それはオーバーロードの原則です。筋トレの大原則といってもいいと思います。
これは、一言でいうと筋肉に刺激を与え、体にとって筋肉が必要だというメッセージを送るためには、負荷(重量)を徐々に重くしていかないといけないという原則です。
家で、スクワット30回、腕立て伏せ30回といったトレーニングをしても筋トレの効果がないのはこの原則をクリアできないからです。
どういうことか?
運動不足の方なら、最初はおそらくおうちでスクワット10回を3セットも難しいかも知れません。でも、例えばそれを週3回、2週間も続けてみてください。最初のうちは脚やお尻にあった筋肉痛もそのうち無くなるはずです。
スクワットの際の負荷(重量=自分の重さ)が変わらないから、です。
つまり、同じことを繰り返しても身体にとって刺激にはならず、「筋肉が必要だ!」というメッセージにはならないということです。
毎日家と駅を往復しても脚が日に日に太くなっていったりしないように、同じことを繰り返しても変化は起きません。毎日同じことをしても鏡に映る自分は毎日同じ。
筋トレ初心者に一番ポピュラーな10回3セット法は、10回出来るか出来ないか程度の重量を使い、3セット全部で10回できるようになったら重量を重くするというのを繰り返す方法です。
この点、負荷を上げるということは筋肉が増えるということで重量を増やしていくと体がムキムキになっていくと勘違いされそうですが、そんなことはありません。理由は先に述べた通りです。ダイエット中の身体では脂肪とともに筋肉も減少するからです。
また、最初はどんな動きにも神経系の適応が起きます。つまり、したことない動作を繰り返していくと、体がその動きに慣れてきて、効率的に筋肉を動かせるようになってきます。
最初の3か月くらいは、筋肉が増えなくてもどんどん持てるウェイトが上がっていきます。もちろん、ある程度で止まりますが、大事なことは、簡単に持ち上がるウェイトを使っても体を変化させるきっかけにはならないという点です。
トレーニングに変化を
体の変化を継続させるためにはトレーニングも毎回変化させる必要があり、毎回10回上がるかどうかの目標に向けてチャレンジするからこそ体は毎回成長します。
毎回同じ重量で同じ回数やってもボディメイクという観点からは効果はないということです。
これは筋肉ムキムキを目指す方も一緒です。
ぼくも昔は毎日一生懸命に水泳と腕立て伏せをしつつムキムキを夢見てましたが、そうなりませんでした。
今ではその理由がよくわかります。
一瞬のきらめきを心に刻む。雪と樹氷の金剛山を味わう。
こんにちは。24カクです。
冬の金剛山。昨日の朝、金剛山に登るロープウェイから見えたキラキラと光る樹氷、こんなにキレイなものがあるのかと思った。この歳になって、世界で一番キラキラしたものを見たと思う。
美しいものの輝きというのはいつも一瞬だ。
朝の優しい太陽に照らされた樹氷たち。無防備な柔らかさと輝きをまとった白い世界を前にして、幸せだと思った。
普段、キレイな自然の景色を見てもあまり立ち止まることのない娘も、この景色だけは無心に見入っていた。今住んでいるところはめったに雪も降らないから雪景色自体が珍しい中、さすがにこの輝いた景色は印象的だった様子。
上の写真の次に撮ったものがこの下。同じ時間のほぼ同じタイミングで撮った写真でも輝きが全く違う。
美しいものの輝きはほんとに一瞬だ。
一瞬のきらめきを心に刻む。
桜の木を覆う樹氷を近くで見ると、桜のつぼみが春に向けた準備を始めていて、ほのかに赤みを帯びたほんの小さなつぼみが見える。今この瞬間は凍えそうなほど寒く雪に覆われた世界なのに、早くも次の季節との境目をほのかに見せてくれる。
そんな微妙な自然の変化を味わう日本人の感性を嬉しく思う。
横にいる娘もいつも以上にご機嫌で、珍しい雪の世界を楽しんでいる。ソリ遊び、雪だるま、積雪への身体ごとダイブ!。一通り2人で楽しんだあと、持参したコンパクトガスバーナとコッヘルでお湯を沸かしてお昼にカップラーメンを食べる。寒さが沁みる中、外で食べるラーメンは格別にうまい。食後は別のコッヘルで熱々の麦茶を味わって、雪遊びに戻る。
一昨年、たまたま家で積雪があった際に家の前で雪だるまを作った以外では、娘と雪遊びをするのは初めて。珍しさも手伝ってか、娘はとにかくご機嫌だ。純粋無垢で素直な笑顔がとにかく可愛い。
きらめき。
この瞬間を心に刻もうと思った。
きっといつも目の前にあるんですよね。ちゃんと心を開いて、ちゃんと目を開けていればいつも目の前に見えてるはずのもの。特別なときにだけ姿を現すのではなく、ほんとはいつもそこにあるもの。
冬の金剛山の限られた時期にしか姿を現さない美しい樹氷を見て感動した。そんなぼくの心を投影するかのように娘の心も輝いている。。
いや、たぶん逆だ。
娘の心はいつも輝いていて、今朝の美しい樹氷を見たぼくの心がその輝きに気付いただけだ。
ほんとはいつもそこにあるもの。そのきらめきは一瞬だけどそこにあるもの。
だから、機嫌よく生きようと思った。
ちゃんと心を開けるように。
ちゃんと目を開けてられるように。
その美しい一瞬の輝きをしっかりと心に刻めるように。
「世間」を生きるのではなく、「自分だけ」を生きるのでもなく。
こんにちは。24カクです。
長年、海外が身近な生活を送ってます。
学生時代に一年休学して海外ボランティア活動。社会人になってからも一貫して海外をフィールドに仕事。20代から30代にかけてヨーロッパに駐在。今でも頻繁に海外出張があり、時に海外からのお客さんと日本で会食。まとまった休みには海外旅行。
海外の方と日常的に接していて思うのは、いい意味で「あまり他人の目なんて気にせず、リラックスして生きてるんだろうな」と思わされる場面が多いこと。
これはヨーロッパ、中国、東南アジア、アメリカ、中南米、どこに行っても感じること。
もちろん、みんなそういう訳でもないとは思うけれど、ただ大多数の方に対して感じることです。
「世間」が染み付いた日本人だから余計に感じるのかもしれないけど、しばらく海外にいて日本に帰ってくると日本の「他人の目」、「世間」的なものに窮屈さを感じる時がある。
海外にいて落ち着くこと
もちろん世界の全ての国に滞在したわけではないし、東南アジアの一部の国では日本の「世間の目」的なものを時折感じる時もあります。また、ヨーロッパでは、レストランでの食事の際に家族連れのお父さんが子供に対してテーブルマナーをあれこれ言ってる場面も見かけますし、社交性・コミュニケーションにおける機知とフランクさはちょっと真似できないものがあると思う。
そういう意味で、当たり前だけどみなさんそれぞれ「社会」に生きてる訳で、他人の存在が前提にある。
ただ、日本人ほど「周りがどう思うか」「他人の迷惑になるのでは」なんてことはあまり思ってないんじゃないかな。
それより、自分がどう思うのか・感じるのかを優先してる気がする。この人のことが好きだからその好きを素直に表現する。嬉しいことがあったら周りなんて関係なく大きな声で満面の笑顔で喜ぶ。
もちろん、周りに迷惑をかけていいなんて積極的に思ってる訳では決してないだろうけど、そんなことより「個人の素直な表現」が広く許容されている気がする。
子供に対する親の対応を見ていても、「子供は親の言うことを聞かないもの」といった前提で、観察しながらもある程度放っておく。何でもかんでもその子の親が面倒見るのではなくて、周りの大人も自然に子供の面倒見に参加している。小さな子供がちょっと騒いだりモノを投げたぐらいのことで親がひどく注意する、なんてあまり見たことありません。
どこかリラックスしたような、少なくとも周りの目を気にして生真面目に頑張ってる!なんて様子は海外に行って感じることがない。
海外に行って落ち着くなーって、思う瞬間です。
「世間」を生きるのではなく
ぼくも日本人なので、日本の「世間の目」の意味合いやその求められるところは分かるのですが、あまり好きじゃない。「周りと同じように」「空気を読め」的な、目には見えない微かな強要の匂いが好きになれない。少なくとも窮屈さを感じる。
ぼくも人のことは好きだし、好きな仲間と何かやるのは楽しい。チームで何かやるんだったら少しでも貢献したいと思う。
でも、昔から意味もなく群れたり、嫌いな人と我慢して一緒にいたり、強制的な集まりに参加したり、そういうことが苦手だった。今でも、大した理由もなく人数が集まるだけの会社の飲み会などには適当な理由をつけて極力参加しないようにしている。大人数でただ飲んでも深い話なんて出来ないしあまり得られるものがないと思うから。それよりは少人数でどっぷり深い話が出来る食事にだけ参加したり、ブログを書いたり、ジムに行ったり、娘と遊んだり。そんな時間の方がよほど有意義に思える。その意味では、もともと日本の「世間」的なところからは少し離れたところにいるんでしょうね。
ぼくも日本人だから、「周りがどう思うか?」という視点はもちろん自分の中に感じるけれど、それよりは自分の気持ちというか、何をしたいのか?したくないのか?を大切にしてきた気がします。
自分だけを生きるのでもなく
なんか例えば日本の教育を見ていていつも不思議なのは、個性や個人を大切にしていこうなんて言いながらその基盤はどこにあるの?ってこと。
海外では、それぞれの信仰する宗教や地域のコミュニティ、その愛情みたいなものが社会的に大きな役割を果たしていて、それがベースになって個人やその人の表現が許容されているんだと思う。
特に欧米は個人主義なんて言われるけど、何も自分だけを生きてるのではなくて、コミュニケーションの力が個人と個人をしっかりと結び付けている印象があるし、ヨーロッパに住んでた時に思ったのは、仕事より何より家族との時間や仲間との食事の時間・会話を大切にしているということ。その上での個人主義なんだと思う。
海外での宗教や地域コミュニティ、家族の絆みたいなもの。日本でそれに対応するもの、そういった社会的基盤って何なんだろう?って、いつも考えてしまう。
昔の日本では、時にはうっとうしい近所付き合いが地域コミュニティとして機能してたんだろうし、子供にとっては親・親族以外に面倒見てくれる大人として存在していたんだと思う。また情報の少ない中、お年寄りの貴重な経験からくる知恵に敬意を払ったり、移りゆく四季の中、時には厳しい自然と共にうまく生きていく知恵があったんだと思う。
それらのものが、時に鬱陶しい「世間」とワンセットで存在した。
でも経済の成長と共に、そういう大切なものを損ない続けてきた。そして、「世間」だけはしっかりと残しつつ、社会的基盤のない「個人」を目指して家族の単位は縮小し、見知らぬ人の集まりである都会だけが膨張して、地域コミュニティも崩壊していった。
それでも経済が成長してるうちは良かったんだと思う。今日より明日、明日より明後日、世界は少しずつ良くなる。少なくとも給料は上がっていく。経済的には希望があった。
右肩上がりの経済を前提にいい大学入っていい会社入って、ローン組んで家と車を買って結婚して子供を持って。こんな既存レールが成立しないことが明確になった今、個人としてどう生きたいのか考えようという方向は正しいと思うし、そうしないと生きていけない。
でも今の日本は、「世間」的な個人を縛るしんどさだけが存在して、それをベースで支える社会的基盤や思想もなく、経済的な希望もない。
そんな気がする。
個人を大切にと言いながら、結局は「自分だけ」を生きようとしていて、一方で世間的なものも気になって仕方がない。
そんな風に見える。
誰かにとっての優しさとして
何があればいいんだろ。
何があれば、ぼくの娘も含めて将来世代の子たちが自分を大切にしながらもリラックスして生きていけるんだろう。
社会的な基盤や思想がないのなら、せめて他人にとっての優しさとして自分が存在すること。これが一つの答えなんだと思う。
だから、今日も明日もぼくは娘とたっぷり遊ぶ。娘の嬉しいこともヤなことも気乗りしないことも自由に表現させてあげる。親はとことんまで付き合ってあげればいい。できる限り、「子供のそのまま」をめいっぱい受け入れてあげたい。
将来振り返って、「自分の子供時代、とにかく楽しかった。たくさん愛情をもらった」という記憶がその人を支えるはずだ。
それが、他人への優しさの基盤になるはずだ。
例えば子供を楽しませる。
他人への優しさに溢れた社会に向けて、そんな小さなものを積み重ねていくしかないんですよね、きっと。
ダイエットにおける筋トレの原則は、ムキムキ目的でも同じ。
こんにちは。24カクです。
過去記事で体重の増減と筋トレの有無を相関図にして解説しました。以下の図です。
この図における右側が「筋トレあり」です。そして上がカロリー収支プラスの状態、つまり体重が増える前提。下がカロリー収支マイナス、体重が減る前提です。
1. 図の右上。体重増加の前提にいる方が「正しい筋トレ」と正しい食事管理と十分な休養、これらを続ければ、①筋肉ムキムキに向かいます。
2. 図の右下。体重減少の前提にいる方が「正しい筋トレ」と正しい食事管理と十分な休養、これらを続ければ、②美しい体型(ダイエット後の引き締まった体型)に向かいます。
上の1.と2.の文章を見比べてみてください。
違いは一つだけです。
体重の増減、つまりカロリー収支だけが違います。
残りの「正しい筋トレ」、正しい食事管理、十分な休養の3点継続。この部分は①筋肉ムキムキでも、②美しい体型でも全く同じです。
体重の増減だけが違う
つまり、「正しい筋トレ」を継続したとして、ムキムキになるか引き締まった美しい体型になるかどうかの分岐点は「カロリー収支」のみ。つまり体重の増減だけです。
逆に言うと、カロリー収支がマイナスの状態、つまり消費カロリーが摂取カロリーを上回る状態=体重減であれば、いくら筋トレを継続しても筋肉ムキムキにはならないということです。
これは②美しい体型を目指す人にとっては安心な話だと思います。(特に筋肉ムキムキを嫌がる女性にとって)
また、筋肉ムキムキを目指す人にとっても念頭に置く必要のある話です。ムキムキになろうと思ったら筋トレだけではなくカロリー収支プラスを意識する必要がある、ということです。
過去記事で繰り返し紹介してきましたが、ダイエット中、つまり体重減少の状態では脂肪と共に筋肉も減少していきます。ダイエット中の筋トレの目的は、負荷のかかる筋トレにより「身体にとって筋肉が必要だ!」というメッセージを与え、減りゆく筋肉を出来るだけ維持することです。
また、摂取カロリー側で脂肪増加にまわるカロリーを筋肉の回復・栄養補給に回すことで脂肪増加を抑える効果、つまり体脂肪率を低く保つという大切な目的もあります。
筋トレの原則
前置きが長くなりました。
ダイエットで体を引き締めて美しい体型を目指す方も、筋肉ムキムキになりたい方も「正しい筋トレ」の中身は同じです。
「正しい筋トレ」の原則とは、一言で表すなら強度が全てです。
では、この「強度」についてもう少し具体的に言うと、
1. オーバーロード
2. 適切な重量と回数
3. トレーニング中 短時間の休憩。短時間でのトレーニング。
となります。
上記3点についてはまた別記事で個別に詳しく紹介したいと思いますが、上記1〜3をざっくりまとめて言うならば、
「徐々に負荷を上げながら、1セット10回程度が限界となる(11回目の挙上が失敗する)適切な重量を選んで1種目3セット。セット間の休憩時間、種目間の休憩時間を出来るだけ短くする」ということ。
筋トレに慣れた人なら当たり前の話ばかりだし、セット数や回数についてはさらに議論が必要なところです。
逆に、筋トレに不慣れな人からすると、「?」な話ばかりかもしれません。
詳細は今後の各記事に譲るとして、
さらに平たく言うと、
「ジムに行ったら各種目、各セット限界を迎えるまで全力で息切れする程度の強度の高いトレーニングをして、おしゃべりする余裕もないくらいの状態で次のセットに向かう。トレーニング時間は、身体クタクタの状態で1時間以内に切り上げる」
という感じ。
高めの負荷でしっかり各種目、各セットで息切れするレベルで筋肉を追い込む。各種目、各セットで追い込まれ疲れた筋肉が回復しきらない状態で、つまり短い休憩時間で息切れが収まったらすぐに次のセット・種目に向かう。
トータル時間は1時間を目安にする。
こんな感じです。
もったいないトレーニング
ジムに行っててよく思うこと。
そのトレーニング、もったいないなー。。
何がもったいないか。
- 各セット終わっても息切れしない程度の余裕の状態
- 長い休憩時間
- トレーニング時間が長過ぎる
いずれも重量が軽い、回数が少ない、バーベルやダンベルを持たずにトレーニング効率の悪いマシンばかりをやっている、セット間、種目間で休憩し過ぎている。
上記のいずれか、あるいはその組み合わせだと思ってます。
せっかく時間とお金をかけてジムに行くのに、あえてトレーニング効果を下げているようにしか見えず、非常にもったいないなと思ってます。
最後に
筋肉ムキムキを目指す方というのは、ぼくの知る限りとても勉強熱心で、この記事や過去記事に書いてきたことは一般常識だと思います。まず理論を正しく理解しないと、簡単に筋肉ムキムキになんてなれないということを身を持って体験されているからだと思います。その意味で筋肉ムキムキの方というのは、筋トレはもちろん食事や栄養の知識についても専門家と言えるレベルであり、その継続期間も含めた努力量というのは凄まじいものがあると思ってます。
一方、ダイエットやボディメイクを目指す方を対象にした情報は非常に偏ったものか、或いは明らかに誤ったものが多く、何故こんなことになるのだろうという感じです。
特に女性向けダイエット、女性向けボディメイクという観点から与えられるトレーニング情報(書籍やネット)というのはデタラメなもので溢れているという印象です。
- ダイエット向けの方はムキムキになりたくないから、こんな女性向けメニューで。
- 負荷は低めで高回数で
- 腹筋と二の腕を重点的に鍛えて引き締めましょう
- 脚に筋肉つけたくないですよね。スクワットはほどほどに。
これら情報は正確性を欠きます。
筋肉ムキムキになるか、美しい体型になるかは冒頭に書いた通り、体重の増減が全て。
「正しい筋トレ」の中身は、ムキムキを目指す人も引き締まった体型を目指す人も、全く同じです。
この理屈は男女ともに同じです。
カロリー収支マイナスである限り、ムキムキになんてなりません。この原則も男女問わず同じです。
どうか正しい情報の元、正しい理論を身につけて美しい体型を目指してください。
そんな思いでダイエット・ボディメイク関連の記事を書き続けています。
正しい理論の元で継続すれば意外と早く結果が出るはず。それは自信にもモチベーションの継続にも影響します。
ムキムキであれ、引き締まった体型であれ、ボディメイクされた状態というのは精神的にとても良いものだと思ってます。
また、究極の目的はかけがえのない健康を手にすることだと思ってます。
それは喪失ではなく永遠だ。
こんにちは、24カクです。
ぼくが子供時代を過ごした関西の田舎。ぼくが家族で住んでいた家は今は無く、そこには別の人が別の家を建てて住んでいます。周りの家や住んでる人はぼくの子供時代のまま。風景も同じ。田んぼと畑が広がって、雄大な山々に囲まれて。
大学に入るまでそこに住んでました。
ぼくが社会人になった頃、両親はもう少し便利な場所へということでその家を引き払って引っ越し。それから5年後くらいかな、元々住んでた場所を訪れたのは。
ぼくの住んでいた家は取り壊されて、全く別の新しい家が建っていた。周りの風景はなにも変わってないのに。
ああ、もう自分の住んでいた家は無くなったんだ。子供時代を家族や近所の友達やおばあちゃん達と過ごしたあの家がもう無い。
子供時代、友達と家の周りをガムシャラに自転車レースしたり、夏になったら蒸しかえる緑の匂いの中、田んぼのタガメを虫取り網で沢山集めたり、近所の神社にある林でカブトムシを捕ったり、家の前で父親とキャッチボールをしたり、雪が降れば家の庭で雪だるまを作ったり。
今では誰だか知らない人が住んでいるその家の前に立って、そんな時間はもう二度と戻ってこないという事実に何とも言えない気持ちになった。
それは喪失ではなく永遠だ
なんとも言えない懐かしい気持ちと、そんな時間は二度とやってこないという寂しさ。
自分の住んでいた家はもう無い。
思い出の詰まった家を見ることはもう出来ない。
喪失感。
このことを言うんだと思った。
引越しても、誰か他の人が住んでいたとしても、家は形を変えずにそこにあるもんだと勝手に思い込んでいた。
全く姿の異なる家になってるのを見て、周りの家や住んでる人たちは同じであることを見て、なんだか自分だけが世界から取り残されたような、そんな気持ちになった。
喪失。
その言葉を噛み締めてみた。
同時に眼の前に浮かんでくる当時の心温まる思い出を静かに味わってみた。
家族や近所のおばちゃん、おっちゃん、おばあちゃんたちからもらった愛情を味わってみた。
そして、
これは喪失なんかじゃないと思った。
それら心温まる思い出たちは、永遠にぼくの中で保証されたものだ。
永遠に、だ。
その時間はもう戻ってくることはないという厳然たる事実が、ぼくの大切な思い出を永遠に保証している。
そういうことなんだと思った。
喪失ではない。
永遠だ。