可能性のど真ん中

発信テーマは海外・子育て・英語・ボディメイク・思索。自分の見ている世界と経験が誰かのお役に立てたら嬉しいです。

【スポンサーリンク】

日本における「多様性」とは。多様性と同調圧力。

こんにちは。24カクです。

久々に記事を書きます。

今回は多様性について。

以前に書きかけて上手く纏められず、半ばお蔵入りしていた下書きを掘り起こして。


近年の日本で「多様性」という言葉をよく目にしますが、その言葉が発せられるニュアンスはほぼ必ず肯定的なものであり、「個性」に似た響きがある。

つまりその言葉、あるいは概念自体に疑問を投げかける態度、文脈が存在しないかのように思える。

人それぞれの出自や行動様式、感覚や価値観、文化、考え方を尊重しましょうという意味では何も異論は無いし、全面的に同意するものですが、そもそもが「多様性」に目を瞑ってきた「日本」という国が近年になって殊更に「多様性」を礼讃するムードに少なからぬ違和感を持っており、そのことがこの記事を書こうと思ったきっかけです。

「常識」の需要

人が社会に暮らす以上、大多数の人が頷くようなこと、つまり「常識」は必要。でないと、人々が社会で円滑にやっていくためのルールやマナーなんてものは存在し得ないんだろうな。

なんて事を考えさせられる機会が最近ありました。

「普通」という概念も同じで、「普通」が存在せず、100人いたら100通りの、1億人がいたら1億通りのオリジナリティ、個性が輝く世界というのは、逆に社会として不安定過ぎる気がしてちょっと想像出来ない。

これは、「サラリーマンは時代遅れ、自分で稼げるようにならなきゃ」なんて風潮にも通じることで、そんな「個性的」なことを言ってる人こそ没個性的に見えるという逆説的現象がある。そういう人のツブヤキが、相当に「常識」的なものだったりする。

やっぱり人が生きていく上で、何かの基準を求めること、その基準にある程度収斂されていくというのは自然なことなんだと思う。

みんな生き延びたいから。

ある基準に従っていれば生き延びれそうだから。

それは自然なことなんだと思う。


「多様性」という言葉は兎にも角にもポジティブな文脈で語られるけれど、完全な多様性が実現された社会というのはキレイごとでは済まない不安定な世界だと思うし、そこで生き延びていくのはきっと大変なこと

多様性と同調圧力

日本では、この「常識」「普通」の威力があまりにも強力なために、多様性は本当はそのままの姿でそこかしこにいるのに、発現する機会も文脈も与えられず、意識されなかったんだろうな。

理念やビジョン、社会共通の善といったものを探すのが極めて難しいこの国の社会において、また、統治の大元がどこにあるのかという、極めて根源的な点さえも社会的に広く共有されてきたとは言えない歴史を持つこの国の社会において、「身近な共同体」そして共同体の共通ルールとしての「常識」「普通」の持つ威力は必然的に大きくなった。

明確な理念やビジョンが無い状況の中で生き延びようと思ったら、社会の安定こそが絶対条件になるわけで、そっちに偏ってしまったんだろうと想像してます。


そして今、何が起こっているか。

「多様性を尊重しよう」
「多様性こそ閉塞感打破のキーワード」
「多様性こそ全て」


先に述べた通り、本当の意味でピュアな状態で多様性が実現されたら社会的には非常に不安定で大変なこと。その認識と覚悟が広く共有されているという前提において初めてこのような価値観は有機的に機能するわけで、そのような社会的共通認識・基盤が見えない日本におけるこれらの言説には違和感しかありません。

そして、その違和感の背景は、この国の同調圧力にある気がしてます。

強すぎる同調圧力への反発、アンチテーゼとしての「多様性」礼讃。

むしろ、『「多様性」というキーワードを発することが善だ』という、新たな同調圧力が生まれているようにさえ見えます。


先に書いた通り、多様性という概念自体には全面的に同意するもので、その点は誤解されたく無いのですが、「多様性」というものの実態を実感する機会、共有する機会が歴史的にほぼ皆無に等しかった「日本」という社会において語られる昨今の「多様性」議論は、根っこの貧弱な木が無邪気に上に伸びていくような危うさを孕んでいると思います。

日本における多様性

この社会における多様性って、そんなキレイゴトじゃないだろうと思ってます。


全く価値観や考え方、行動様式の違う人と空間を共にして平然と過ごせるかどうか。


平たく言えば、そういうことなんだと思います。


例えば、身体のあちこちにタトゥーを入れた海外の方々が普通にサウナに入ってきたらどうします?ちょっと落ち着かないなーと思いながらも、それでもリラックスして過ごせますか?

それとも、タトゥーは禁止ですってお店のスタッフにクレームしますか?

世界には、髪型を変えるような軽いノリでタトゥーを入れる人から、文化的・宗教的な背景からタトゥーを入れてる方もいるわけです。

どうします?

それでもまだ「多様性」を無条件に手放しで礼讃できます?


ほんとの「多様性」って、そんな簡単なものじゃ無いと思います。


自分とは違う考え方や価値観、時には同意し得ないもの、嫌悪感を覚えるもの、根底の美意識に反するものもあり得る。

日本的に言えば「他人に迷惑をかける」ような人、「他人に配慮が足りない」人。
日本人から見ればそのような行動様式を取る人なんて世界にはゴマンといるわけです。


そういう人たちも含めて一つの社会なんだと思えるかどうか。


そういう人だからこそ、自分にない斬新さを提供してくれる、社会に変化を与えてくれると思えるかどうか。


多様性って、覚悟から始まる話なんだと思います。

一生懸命、自己肯定、そして希望。

こんにちは。24カクです。

先日、娘の運動会がありました。
一番印象に残ったのが、かけっこ。

1組6人で走るんですが、練習では何回走っても一人の男の子に勝てず毎回2位になる。

本番では絶対勝つから!と張り切ってました。


そして本番。

運動場の半周を走るコース。最終コーナーを回る辺りに先に陣取って応援。

スタート後しばらくは、その男の子とほぼ互角の走りをしていたところ、丁度ぼくの目の前を通り過ぎた辺りで娘がトップに。「そのまま行けー!」と絶叫まがいの応援が甲斐あったのかは分からないけど、そのままトップでゴールテープを切りました。


良かった。


喜ぶ娘の顔が見れてもちろん嬉しかったんだけど、それよりも一生懸命走る娘の表情がほんとに清々しくて、その姿が何より印象に残った。


まさに「一生懸命」を体現した走りだったし、勝つ!という気持ちがそのまま表れた清々しい勝負顔が最高に良かった。


「一生懸命」の意義

一番という結果を目指してそれが叶ったわけだから、もちろんその結果は嬉しい。

でも、結果よりもっと価値があるのは「一生懸命」に勝負したってことなんじゃないかな。

結果がどうなるかは別にして、一生懸命なその姿は、掛け値なしに清々しく美しい。

一生懸命やれば、それで十分。


娘のかけっこを見て、そんなことを思った。



未来、というのは誰にも分からないもので期待通りにいかないもの。


一方で、「今」の自分が過去の自分の積み重ねで構成されているように、未来の自分も「今」の自分の積み重ねで構成されるはず。


一生懸命な「今」の自分は、その自分を構成すべく積み重ねてきた過去を一瞬で全肯定する力を持っている。

「過去は解釈次第でアップデート可能」なんて言葉をよく耳にする。けれど、解釈云々の前に目の前のことを一生懸命するだけ、たったそれだけのことで過去は全肯定される。


それは、未来も同じ。


一生懸命な「今」の自分の積み重ねが未来の自分を形作る。つまり、今の一生懸命が未来を全肯定する。


そう、

「一生懸命」とは自己肯定のことであり、そのものが「希望」なんだと思う。


娘の一生懸命走る姿は、そんな大切なことを教えてくれた。


一生懸命やればいい。

それだけで十分。

愛されたという記憶。愛情とは信頼のことだ。親が子供に残せるもの。

こんにちは。24カクです。

親が子供に残せるもの。

それは、将来子供が自分の子供時代を振り返った時に「自分はしっかりと親から愛された」という記憶ではないかと思う。

親からしっかり愛されたという記憶が子供の「自信」を育む。

その「自信」というのは、過去の成功体験といった実績に裏打ちされたものではなく、結果を残せるか分からない新たな世界に飛び込む際のベースになる「根拠のない自信」なんだと思う。

最近、そんなことをふと考えるようになった。


歳を重ねて、この年齢になり、

  • 新しいことをしてみたい
  • 結果を残せるか分からない世界にいたい
  • 根拠も保証もないけれど、何となく自分には出来そうな気がする
  • どこに住んでも、どんな人とでも何となくやっていけそうな気がする
  • だからこの先も人生きっと何とかなる


こんな風に考えられるのは、きっとぼくが小さい頃親からしっかりと愛されたからなんだろうと、考える。


「親から愛されたから自分は大丈夫だ」という明確な認識ではなく、「このような考え方が出来るのは、きっと親から愛されて育ったからだろう」と気づく。


ある時にふと、「この根拠のない自信はきっと親から無条件に愛されてきたからだ」と、後から振り返って気づく。

愛されたという記憶。愛情とは信頼のことだ。

30過ぎで自分にも子供が出来、娘との日常を過ごす中、その日常が娘の将来に何を残すのだろうと考えていた。


親が子供に残せるもの。

養育。栄養のある食事を共にし、毎日清潔な服を着させ、乾いた布団でゆっくり寝かせる。習い事を含め、娘がしたいことをさせてあげる。そんな生活に必要な経済力を確保する。それはぼくにとってはあまりにも当たり前で自明のこと。


安心。家庭が娘にとって安心の場であって欲しい。外でヤな事があっても、家に帰ってきて過ごす時間が彼女を回復させる、少なくとも家でだけは好きに自分を表現できる、そんな場であって欲しい。だから、ぼくは所謂「しつけ」というものをあまりしない。偏見にまみれた親の狭い視野、狭い価値観を押し付けたところでそれが娘の将来に役立つのかは多いに疑問が残るし、人間的に未熟な自分が押し付けがましいことを言ったところで「どの口が?」という思いもある。


愛情。愛情を与えるとはどんな事だろう。何をもって愛情というのか、子供にとってはどういうものを愛情と感じるのだろうか。「厳しいしつけも親の愛情」なんて言い方があるけれど、ぼくは賛同出来ない。本当か?と思う。それは「愛情」ではなく、親の「世間体」や「エゴ」や「甘え」なんじゃないのかと。しつけなんて社会の成り立ちや身に付けるべき習慣を優しく辛抱強く言葉で伝え続けていく事だけだ。子供がいうことを聞くかどうかは関係ないと思う。親の言うことを聞かせる、が躾で、それが親の愛情だなんて、子供に失礼だ。


信頼。愛情とは信頼のことなんだと思う。他の誰が何を言おうが、どう評価しようが、子供の可能性を見つめ続ける、その可能性が形になって花開くことを応援し続ける。見守り続ける。そんな信頼のことを愛情と呼ぶんだと思う。


最近、娘が新しい習い事を始めた。

何年か先に始めた周りの子供たちとは現時点で明らかなレベルの差があるけれど、きっと大丈夫。すぐに追いつくよ。それだけ楽しんでやってるんだし、その姿に大きな可能性がくっきりと見えてるから。だから大丈夫。

親から愛されて育ったぼくが言ってんだから、間違いないよ。この根拠のない自信には、「親に愛された」という確かな根拠があるんだよ。


だから大丈夫。


そのまま育ってくれたら、それだけで大丈夫。

希望の正体。可能性を見つめること。

こんにちは。24カクです。

過去記事にも書いてきましたが、娘と日常を過ごしていると、多くの気付きを与えてくれます。


最近、娘が新しく始めた運動系の習い事があって、そこではまずきちんとした挨拶を求められます。知らない保護者でも、子供が駆け寄って来て丁寧に挨拶。始まりには複数のコーチに1人1人丁寧に挨拶。一緒に練習する子供同士で挨拶。終わりにはまたコーチ1人1人に丁寧に挨拶。会場を出る時に改めて大きな声できちんと挨拶。

と書くと、何やら時代錯誤なスパルタ系の指導を思い浮かべる方もいるかも知れないけど、実態は全くの逆。子供達が本当に伸び伸びと、且つ真剣に取り組んでいる様子が見ていて伝わって来る。
体を思いっきり動かすという喜びを純粋に表現しつつ、同時に今の自分にはスキルとして何が足りないのか?を自ら考えて、目の前の練習に組み込ませるというスタイルが確立している。

娘が所属するコースは小学生だけで構成されていて、練習前の準備体操から練習の合間の体幹トレーニング、子供同士での練習補助、練習前後の整理整頓など、そのほぼ全てが子供達だけで運営されている。うちの娘を含め、低学年の新しい子が入ってきたら、コーチに促されることなく、自然と大きな子が優しく練習の流れや段取りを教えてくれる。

そんな素敵な光景がそこにはあった。


挨拶をきちんとしよう。これも高学年の上の子がうちの娘に教えてくれたこと。

希望の正体

そんなクラブに入った娘。

娘は普段「超」のつく活発さで元気で前向き。それと同時に見知らぬ大人の前では「超」のつく恥ずかしがり屋さんで、授業参観に行っても「知らない大人がいる、見てる」というだけで手を挙げれなかったり、今住んでるマンションのエレベーターで会う住人に挨拶を促しても恥ずかしくて出来ない。

別にそれはそれで良いと思っていて、そのうち出来るようになるよ、くらいに思っていた。


ところが。


クラブでの同年代の子供の姿に刺激を受けたのか、練習後の挨拶では、今までぼくが聞いた中で一番の音量でコーチにさよならの挨拶をしていた。


「出来たで!挨拶できた!」


嬉しそうな娘の顔を見てぼくも嬉しかった。今まで出来なかったことが出来た、そんな誇らしそうな娘の顔を見て、ぼくも誇らしい気持ちになった。


帰ってきてマンションに着くと、エレベーターに乗り合わせた住人にこれまた元気な声で挨拶をした。

「挨拶出来たで!」

勢いに乗ったんだろう。また嬉しそうな顔を見せてくれた娘。


「今の、お父さんより声大きかったで!」

「お父さん、もっと元気に挨拶せなあかん!」


最高だ。

何の他意もなく最高だと思った。


勇気を出して元気に挨拶したら、コーチも周りの子供も父親もとても喜んだ。


出来なかったことが出来た。

誇らしげな、嬉しそうな娘の顔。

そんな娘に、希望を見た。


勇気を出した結果、見えてくる将来。

それを希望と呼ぶのだと思う。



可能性を見つめる。大切にする。

やればできる。

娘は、そんな可能性にちゃんと向き合った。そんな可能性をちゃんと大切にしたんだ。


また一つ娘に大切なことを教えてもらった気がする。


自分の可能性を見つめること。

自分の可能性を大切にすること。

可能性とは幾つになっても変わらずそこにあるということ。


勇気を出すこと。

希望とは自分で見出していくものであるということ。



自分の可能性を大切にするために、

この先幾つになっても希望を見出していけるように、


ぼくも娘よりもっと元気に挨拶することから始めようと思う。

「子供は3歳までに一生分の親孝行をする」は、半分当たりで半分ハズレだ。

こんにちは。24カクです。

「子供は3歳までに一生分の親孝行をする」という言葉があります。

生まれて来てくれた喜び、無性に湧き上がる愛情、見ていても可愛くて仕方のない表情。そんな大きな幸福感を親に与えてくれる小さな子は、3歳までに既に一生分の親孝行をしている。こんな意味と理解しています。


じゃあ、なんで「3歳まで」なんだろう?


ネットでいくつか調べてみると、3歳を超えると自我が芽生えて親に反抗してくるから、というのが「3歳」というラインの一つの背景みたいです。

いくつになっても子供は可愛い

うちにはまだ小さな娘が1人いて、「3歳」という年齢はとっくに過ぎたものの、3歳までの日々はもちろん、小学生になった今でも変わらず可愛いと思ってます。

もちろん、自我は十分に芽生えているし、親の言うことは聞かない、品の良くない言葉を掛けてくるなんてことは日常茶飯事。でも、そんな些細なことを補って余りあるほど可愛い姿をこれでもかと見せてくれる。

その日に学校であったことを一生懸命話してくれるその表情や、しょーもないことにも腹を抱えて笑う姿、習い事に懸命に取り組む姿、親に必死に抵抗する姿。

そんな全てがめちゃくちゃ可愛い、と今でも素直に思える。


そして、ぼくが娘に抱くこの感情は彼女が何歳になってもきっと変わらずそこにあるものだと最近思う。


ぼくの場合は、小さな娘とどっぷり過ごせる時間を確保したいという理由だけで転職した背景もあり、平日一緒に晩ご飯を食べたり、寝る前に遊んだり、土日になれば朝から晩まで丸一日娘と一緒に過ごせる時間そのものが本当に貴重なものだと感じる。


子供と一緒にいられるそんな幸せな時間に、「家族」というものの意味や意義を感じ取ることが出来る。

だから、「3歳まで」じゃない

これまで娘の子育てに(部分的ながらも)携わってみて、「自分より大切な存在ってこの世界にいるんだ」という大きな気付き。


「未来を拓く」というのは、小さな子供が自分の好きや嫌いや楽しい面白くないを日々ストレートに表現して生きる、このことを言うんだという大きな気付き。

そんな大切なことはいつも子供が教えてくれる。


人生で本当に大切なことはいつも子供が教えてくれる。


子供のことをしっかりと見つめてどっぷりと何でも受け入れてあげる限り、子供はいつも大切な気付きを親に与えてくれるんだと思っている。


そして、それは決して「3歳まで」ではないだろうと思う。


だから、

「子供は3歳までに一生分の親孝行をする」は、半分当たりで半分ハズレだ

と思う。


結果もプロセスも大切。でも、キラキラなんてしなくていい。

こんにちは。24カクです。

「キラキラしてる」という言葉はいつから出回るようになったんでしょうか。

ぼくは昔から流行の類から最も遠いところにいるような人間なので、いつからこんな言葉があるのかよく分かりませんが気付けばこの言葉が流通してました。

語感としては分かります。何かの分野で活躍してる、日々が充実して見える、活き活きしている、そんな言葉の現代版なんだということぐらいは分かります。


ただ、

ある有名ブロガーさんが、「今日の私のキラキラを見てください」なんていうご本人写真付きツイートしているのをたまたま見かける機会があり、正直その写真がキラキラしてるようには見えなかったのと(すみません)、「キラキラしていること」がみんなが目指すべき大前提として伝えられているといった行間を読んでしまい、


「そもそも、なんでキラキラしないといけないの?」という違和感だけが残った。


そんなキーワードを追いかけて、「キラキラ」という状態をゴールとしてイメージするのは違うんじゃないかという疑問だけが残った。

結果もプロセスも大切

なぜこんな記事を書こうと思ったかというと、

最近ふと

「結果はもちろん大切。でも、そこに至るプロセスがもっと大切」というありきたりのことを考えさせられる機会があり、

じゃあその大切な「プロセス」とは何かを考えた時に、上手くいかない中で何とか前を向こうとモガキ続けた経験や、ぐちゃぐちゃした言葉にできないようなモヤモヤ感、違和感、葛藤こそが将来から見た自分にとって一番大切なのではないかと思ったから。


結果を出すことはもちろん大切。

仕事をしていても具体的な結果をイメージして求め続けて行動しない限り、いつまでも求める結果は手に出来ないし(当たり前ですが)、また「プロセスこそが大切なんだよ」と一見正しいことを言ってる人に限ってプロセスだけを重視して結果をイメージできていない(結局、結果を出せない)、この人は一体どこを目指してしてるんだろうと思うことが多々ある。


結果を求めるという芯がブレないからこそ、そのプロセスに意義が生じる


一方で、そこに至るプロセスというのは輝かしい充実したプラスのものなのかというと、おそらく実態は全く逆の場合が多く、もっと泥臭いぐちゃぐちゃした世界に身を置く時間の方が圧倒的に多いと思っている。

だからこそ将来の自分から見て、そんなプロセスに意味があるんだと思う。

キラキラなんてしなくていい

今の時代は「今すぐの結果」を求め過ぎな気がする。

ネットで情報を上手く検索して、情報を共有し合える仲間と上手く繋がって、そうしたら〝最短で″ 〝効率よく″ 結果が手に入れられる、みたいな感じで、

何やら結果を急ぎすぎているように見えてしまう。


そんな時代の雰囲気を象徴する言葉が「キラキラする」なんだと思う。

結果を求めることはもちろん大切。

でも、本当はそこに至るプロセスでモガクという経験が一番大切。

別に、キラキラなんてしなくていい。


充実した人生は、ドロドロでぐちゃぐちゃな弱い自分をしっかりと見つめる強さを手に入れることから始まるのであって、別に表面的なキラキラなんて求めなくていい。


キラキラしてるかどうか、なんて全く気にしなくていい。


これだと信じる結果があるのなら、そのまま、泥まみれでぐちゃぐちゃした弱い自分のまま進んでいけばいい。


結果を求めるのはとっても大切。

でも、そこでモガキ続けるプロセスこそ本当に大切なもの。違和感や葛藤の中でこそ見つかるもの、磨かれるものがあるんだと思う。


だから、キラキラなんてしなくていいよ。



子供の喜ぶ姿が全て。心を開いて。

こんにちは。24カクです。

先日、たまたま会社がお休みだった平日に娘の小学校の給食参観があり行ってきました。2年生ということもあって、他の親御さんたちは既に去年1年生の時に見学されたのか、参加した保護者はぼくを含めてクラスで3人だけ。

保育園時代のお迎えの際にも何度か体験したのですが、多数の子供を前にすると時々不思議なことが起こります。

給食がひと段落して休み時間に入った時、顔も名前も知らない初対面の子供たちが、ぼくに駆け寄ってきて猛烈な勢いで話しかけてくる。

近所に住む親戚を含めた自分の家族構成を一生懸命説明してくれたり、習い事のサッカーの様子について詳しく教えてくれたり。そんな様子を見てさらに知らない子が寄ってきて、抱っこして!、力こぶ作ってみて!とか。

ぼくは元々子供好きなので、そんな全てがとっても微笑ましい幸せな時間。

変な顔して!とか、無茶なリクエストにも出来る限り全て応えてあげるんですが、初対面の子供たちが猛烈な勢いで寄ってくるあれは一体何なんだろう。

子供の様子が自分を教えてくれる

子供たちがそうやって勢いよく寄って来てくれる理由はよく分からないんだけど、ただ、そういう時の自分は「良い状態」なんだと思う。

もっと言えば、自分の理想とする状態なんだと思う。

ぼくは昔から日々の自分の状態を自分自身で正確に把握するというのが苦手で、今日は調子がいいなーなんて思っていても友達との雑談が弾まなかったり、相手の表情が少しこわばって見えたりなんてことがたまにあります。逆に、今日はなんか疲れてるなーって思っている時に、会話してる相手が笑顔だったりリラックスした表情だったりする。

そうして、相手の様子を見ることで本当の自分の状態を知るということが昔から多々ありました。


小さい子供って、利害関係や駆け引き、本音と建前みたいなややこしい世界とは無縁の純粋さで満たされてますよね。

だから、子供の反応こそが自分の本当の姿を映してくれてると思うし、そんな純粋な子供たちが勢いよく寄って来てくれるというのはぼくが良い状態、心を開いてる状態なんだろうなと思います。

心を開いてこそ

蓋を外して始めてコップに水を注げるように、心を開いて始めて自分に入って来るものがある。

刺激、喜び、幸福感。

心を開いた自分に入ってきたそれらが、また目の前の子供を喜ばせる。


心の交流が生まれる。


そう、心の交流は心を開くことから始まる。


子供と接して喜びを感じる時、それと同じ喜びを子供が共有してくれてると感じる時、そこに心の交流を感じ取る。


人は、そんな交流を感じ取れない状態が続くと寂しすぎてその辛さに耐えれない生き物だとぼくは思っていて、だから、そんな交流こそが人間関係の原型なんだと思ってます。


世間体や他人の目や恥ずかしさなんてものは棚上げにして、素のあなたと接した子供が笑顔で心から喜んでくれてるなら、

本当に大切なことはそこにある。


生きていく上で本当に大切なものはそこにある。


そう、子供の喜ぶ姿が全て


なんだと思う。

書くこと自体に意味がある。書くことで守られるもの。

こんにちは。24カクです。

昨日久々に記事を書いて思いました。

やはり、ブログは自分に向けて書いてるんだってこと。

「あなた」といいながら、それは全て「自分」を指してるってこと。

www.24kaku.com

書くこと自体に意味がある

書くという行為は、その時の「自分」をある枠組みで切り取って記録に残すこと。

言葉にしたい想いを表の世界に引っ張り出して来ること。

そのために書く。


結果として上手くいくかどうか、自分の想いがしっかりと言葉として表現できたかどうか。

そこはおそらく副次的な話であって、あまり大切ではない気がする。


書くということ、その営み自体に意味があるんだと思う。


それは丁度、掃除というものががキレイ、汚いではなく、掃除という行為そのものに意味があるのと似ている。


書くことを通して、「自分」の中を覗きにいく。そこにある掴みどころのないものに何とか形を与えようと試みる。色や素材やサイズがぴったりの服を探すように、これだという言葉を探す。探し続ける。


そんな営み自体に意味があるんだと思う。


そんな営みによって、その時々の自分という瞬間をしっかりと見つめる。


そうして、自分を大切に扱う。


書くという行為は、自分を守ること、大切に扱うこと。


だから、


書くこと自体に意味がある。


大切なことは、子供に戻ること。感性に生きること。

こんにちは。24カクです。

前回更新から3ヶ月近く経ちました。更新しよう、記事を書こうという気にならず、もう自分の中でブログの役割は一旦終わった気になっていたんですが、時間を置くとまた書きたくなるものですね。残しておいて良かったです。全く更新していないにも関わらず、日によっては沢山の方々にブログを訪問頂いていたようで、その事実も記事を再開しようと思ったきっかけです。ありがとうございます。


前置きが長くなりましたが、今回は「子供に戻る」「感性」というテーマで書いてみます。

子供は生き方のお手本

うちには小学生の娘がいます。

過去記事にも書きましたが、子供って「今」「目の前」を一生懸命生きていて、それをほんとに分かりやすい形で表現してくれます。

自分の興味のむくこと、目の前で自分の感じていることが全て。
あれがしたい、これがしたい。ヤなことは絶対にしない。今すぐアイスが食べたい、今日は寝る前に絶対テレビが見たい、片付けなんてしない、謝りたくない。。

そんな全てを一生懸命表現してくれる姿は本当に可愛いらしいと思うし、今しかない貴重な時間だなと思う。

昨日あったヤなことや、明日起こるだろう面倒ごとなんて頭に無い時間で溢れてるんだろうなって。
面白い遊びを見つけたら、まさに自分全てを預けるかのように没頭する、集中する、その時間を楽しみ尽くす。

今に意識を集中する、雑念なんてやって来る前に目の前の感覚に意識を集中する。


まさに子供こそが生きるお手本だと思う

大切なことは子供に戻ること

子供って、無意識なりに自分の感性をとっても大切に扱ってるんだと思う。

自分の感じることや自分の感性、そういった代替のきかない大切さを直感的に理解してるんだと思う。

自分は一人だから。

寂しいとか孤独とかいったって、どこまでいっても自分は一人だから。

代替がきかない貴重な存在としていつも、いつまでも自分は一人だから。


だからいいんだと思う。


そんな、一人きりの自分の感じることだからこそ価値があるんだと思う。

誰が何を言おうが、周りがどんな評価を下そうが関係なく、価値がある。


一人きりの自分が感じたこと、その感じ方。

それを感性と呼ぶなら、その感性こそ、あなたが何より大切にするべきもの


嬉しさも喜びも悔しさも悲しさも違和感も、そして言葉にできないグチャグチャした想いも、全てあなたにしか感じることの出来ない宝物だ


そして、それを大切に出来るのはあなたしかいない。



歳を重ねる度に思うことがあります。


それは、人生何とかなるということ。


そして、人生なんとかなる、という思いを支えるのは自分の感性であり、それを認める心の余地にあるということ。


子供は、そんな大切なことを直感的に本能的に理解して日々生きてるんだと思う。


だから、


大切なことは、子供に戻ること。

子供に戻って心のスペースを取り戻すこと。

そうして、感性に生きること

なんだと思います。


美しい世界を見るために。世界を美しく見るために。

こんにちは。24カクです。

気付けば前回更新から1ヶ月以上経ちました。ブログよりも圧倒的に筋トレに熱中していたのでブログに意識が向かない期間が続いてました。書きたくなった時にまた書こうと。


今回久々に記事を書こうと思ったきっかけは以下の名言に出会ったこと。

Better keep yourself clean and bright; you are the window through which you must see the world.
(作家 ジョージ・バーナード・ショー)

訳: いつも自分をきれいに明るくしておくといい。あなたは自分という窓を通して世界を見ているのだから。


本屋で娘の本を選んでる時に、子供向け名言集みたいな本があってその中にあった一文。

ネットで原文を調べて。

とっても印象に残りました。

大切なのはいつも自分自身

美しい世界を見る。

世界を美しく見る。

世界が美しいのでなく、世界を美しいものとして認識する。世界を美しくするのは自分自身。美しい世界に気づくのは自分自身。

そのために自分をきれいに、明るく。


それは、自分自身を大切にするってことなんだと思う。

  • 苦しみや痛みこそ、その先の大きな喜びを担保していると、
  • 自分の可能性を全面的に信頼する。
  • 自分だけが感じてるかもしれない違和感や異物感を宝物にする。
  • これは違う、と思うものに流されない。


可能性や感情というものは自分にしかわからない、自分にしか感じ取れないもの。

だから、「自分の可能性を信頼し、感じたことを大切にする」というのは自分自身にしか出来ない。

あなた自身のことを理解出来るのは、いつもあなただけ。

だって、自分の代わりはいないんだから。自分はいつも1人。代替の効かない存在という貴重な意味合いで、いつも1人だ。

自分を大切にできるのは、いつも自分だけだ

それをないがしろにするところから「負け」がこんでいくんだと思う。


だから、今自分の感じてることが全て。
それを大切にするところが全ての始まり。


これからもずっと大切にしていきたいなって思います。


美しい世界を見るために。

世界を美しく見るために。

【スポンサーリンク】