可能性のど真ん中

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日本における「多様性」とは。多様性と同調圧力。

こんにちは。24カクです。

久々に記事を書きます。

今回は多様性について。

以前に書きかけて上手く纏められず、半ばお蔵入りしていた下書きを掘り起こして。


近年の日本で「多様性」という言葉をよく目にしますが、その言葉が発せられるニュアンスはほぼ必ず肯定的なものであり、「個性」に似た響きがある。

つまりその言葉、あるいは概念自体に疑問を投げかける態度、文脈が存在しないかのように思える。

人それぞれの出自や行動様式、感覚や価値観、文化、考え方を尊重しましょうという意味では何も異論は無いし、全面的に同意するものですが、そもそもが「多様性」に目を瞑ってきた「日本」という国が近年になって殊更に「多様性」を礼讃するムードに少なからぬ違和感を持っており、そのことがこの記事を書こうと思ったきっかけです。

「常識」の需要

人が社会に暮らす以上、大多数の人が頷くようなこと、つまり「常識」は必要。でないと、人々が社会で円滑にやっていくためのルールやマナーなんてものは存在し得ないんだろうな。

なんて事を考えさせられる機会が最近ありました。

「普通」という概念も同じで、「普通」が存在せず、100人いたら100通りの、1億人がいたら1億通りのオリジナリティ、個性が輝く世界というのは、逆に社会として不安定過ぎる気がしてちょっと想像出来ない。

これは、「サラリーマンは時代遅れ、自分で稼げるようにならなきゃ」なんて風潮にも通じることで、そんな「個性的」なことを言ってる人こそ没個性的に見えるという逆説的現象がある。そういう人のツブヤキが、相当に「常識」的なものだったりする。

やっぱり人が生きていく上で、何かの基準を求めること、その基準にある程度収斂されていくというのは自然なことなんだと思う。

みんな生き延びたいから。

ある基準に従っていれば生き延びれそうだから。

それは自然なことなんだと思う。


「多様性」という言葉は兎にも角にもポジティブな文脈で語られるけれど、完全な多様性が実現された社会というのはキレイごとでは済まない不安定な世界だと思うし、そこで生き延びていくのはきっと大変なこと

多様性と同調圧力

日本では、この「常識」「普通」の威力があまりにも強力なために、多様性は本当はそのままの姿でそこかしこにいるのに、発現する機会も文脈も与えられず、意識されなかったんだろうな。

理念やビジョン、社会共通の善といったものを探すのが極めて難しいこの国の社会において、また、統治の大元がどこにあるのかという、極めて根源的な点さえも社会的に広く共有されてきたとは言えない歴史を持つこの国の社会において、「身近な共同体」そして共同体の共通ルールとしての「常識」「普通」の持つ威力は必然的に大きくなった。

明確な理念やビジョンが無い状況の中で生き延びようと思ったら、社会の安定こそが絶対条件になるわけで、そっちに偏ってしまったんだろうと想像してます。


そして今、何が起こっているか。

「多様性を尊重しよう」
「多様性こそ閉塞感打破のキーワード」
「多様性こそ全て」


先に述べた通り、本当の意味でピュアな状態で多様性が実現されたら社会的には非常に不安定で大変なこと。その認識と覚悟が広く共有されているという前提において初めてこのような価値観は有機的に機能するわけで、そのような社会的共通認識・基盤が見えない日本におけるこれらの言説には違和感しかありません。

そして、その違和感の背景は、この国の同調圧力にある気がしてます。

強すぎる同調圧力への反発、アンチテーゼとしての「多様性」礼讃。

むしろ、『「多様性」というキーワードを発することが善だ』という、新たな同調圧力が生まれているようにさえ見えます。


先に書いた通り、多様性という概念自体には全面的に同意するもので、その点は誤解されたく無いのですが、「多様性」というものの実態を実感する機会、共有する機会が歴史的にほぼ皆無に等しかった「日本」という社会において語られる昨今の「多様性」議論は、根っこの貧弱な木が無邪気に上に伸びていくような危うさを孕んでいると思います。

日本における多様性

この社会における多様性って、そんなキレイゴトじゃないだろうと思ってます。


全く価値観や考え方、行動様式の違う人と空間を共にして平然と過ごせるかどうか。


平たく言えば、そういうことなんだと思います。


例えば、身体のあちこちにタトゥーを入れた海外の方々が普通にサウナに入ってきたらどうします?ちょっと落ち着かないなーと思いながらも、それでもリラックスして過ごせますか?

それとも、タトゥーは禁止ですってお店のスタッフにクレームしますか?

世界には、髪型を変えるような軽いノリでタトゥーを入れる人から、文化的・宗教的な背景からタトゥーを入れてる方もいるわけです。

どうします?

それでもまだ「多様性」を無条件に手放しで礼讃できます?


ほんとの「多様性」って、そんな簡単なものじゃ無いと思います。


自分とは違う考え方や価値観、時には同意し得ないもの、嫌悪感を覚えるもの、根底の美意識に反するものもあり得る。

日本的に言えば「他人に迷惑をかける」ような人、「他人に配慮が足りない」人。
日本人から見ればそのような行動様式を取る人なんて世界にはゴマンといるわけです。


そういう人たちも含めて一つの社会なんだと思えるかどうか。


そういう人だからこそ、自分にない斬新さを提供してくれる、社会に変化を与えてくれると思えるかどうか。


多様性って、覚悟から始まる話なんだと思います。

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