可能性のど真ん中

発信テーマは海外・子育て・英語・ボディメイク・思索。自分の見ている世界と経験が誰かのお役に立てたら嬉しいです。

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「世間」を生きるのではなく、「自分だけ」を生きるのでもなく。

こんにちは。24カクです。

長年、海外が身近な生活を送ってます。

学生時代に一年休学して海外ボランティア活動。社会人になってからも一貫して海外をフィールドに仕事。20代から30代にかけてヨーロッパに駐在。今でも頻繁に海外出張があり、時に海外からのお客さんと日本で会食。まとまった休みには海外旅行。


海外の方と日常的に接していて思うのは、いい意味で「あまり他人の目なんて気にせず、リラックスして生きてるんだろうな」と思わされる場面が多いこと。

これはヨーロッパ、中国、東南アジア、アメリカ、中南米、どこに行っても感じること。

もちろん、みんなそういう訳でもないとは思うけれど、ただ大多数の方に対して感じることです。

「世間」が染み付いた日本人だから余計に感じるのかもしれないけど、しばらく海外にいて日本に帰ってくると日本の「他人の目」、「世間」的なものに窮屈さを感じる時がある。

海外にいて落ち着くこと

もちろん世界の全ての国に滞在したわけではないし、東南アジアの一部の国では日本の「世間の目」的なものを時折感じる時もあります。また、ヨーロッパでは、レストランでの食事の際に家族連れのお父さんが子供に対してテーブルマナーをあれこれ言ってる場面も見かけますし、社交性・コミュニケーションにおける機知とフランクさはちょっと真似できないものがあると思う。

そういう意味で、当たり前だけどみなさんそれぞれ「社会」に生きてる訳で、他人の存在が前提にある。

ただ、日本人ほど「周りがどう思うか」「他人の迷惑になるのでは」なんてことはあまり思ってないんじゃないかな。

それより、自分がどう思うのか・感じるのかを優先してる気がする。この人のことが好きだからその好きを素直に表現する。嬉しいことがあったら周りなんて関係なく大きな声で満面の笑顔で喜ぶ。
もちろん、周りに迷惑をかけていいなんて積極的に思ってる訳では決してないだろうけど、そんなことより「個人の素直な表現」が広く許容されている気がする。


子供に対する親の対応を見ていても、「子供は親の言うことを聞かないもの」といった前提で、観察しながらもある程度放っておく。何でもかんでもその子の親が面倒見るのではなくて、周りの大人も自然に子供の面倒見に参加している。小さな子供がちょっと騒いだりモノを投げたぐらいのことで親がひどく注意する、なんてあまり見たことありません。

どこかリラックスしたような、少なくとも周りの目を気にして生真面目に頑張ってる!なんて様子は海外に行って感じることがない。

海外に行って落ち着くなーって、思う瞬間です。

「世間」を生きるのではなく

ぼくも日本人なので、日本の「世間の目」の意味合いやその求められるところは分かるのですが、あまり好きじゃない。「周りと同じように」「空気を読め」的な、目には見えない微かな強要の匂いが好きになれない。少なくとも窮屈さを感じる。

ぼくも人のことは好きだし、好きな仲間と何かやるのは楽しい。チームで何かやるんだったら少しでも貢献したいと思う。

でも、昔から意味もなく群れたり、嫌いな人と我慢して一緒にいたり、強制的な集まりに参加したり、そういうことが苦手だった。今でも、大した理由もなく人数が集まるだけの会社の飲み会などには適当な理由をつけて極力参加しないようにしている。大人数でただ飲んでも深い話なんて出来ないしあまり得られるものがないと思うから。それよりは少人数でどっぷり深い話が出来る食事にだけ参加したり、ブログを書いたり、ジムに行ったり、娘と遊んだり。そんな時間の方がよほど有意義に思える。その意味では、もともと日本の「世間」的なところからは少し離れたところにいるんでしょうね。

ぼくも日本人だから、「周りがどう思うか?」という視点はもちろん自分の中に感じるけれど、それよりは自分の気持ちというか、何をしたいのか?したくないのか?を大切にしてきた気がします。

自分だけを生きるのでもなく

なんか例えば日本の教育を見ていていつも不思議なのは、個性や個人を大切にしていこうなんて言いながらその基盤はどこにあるの?ってこと。

海外では、それぞれの信仰する宗教や地域のコミュニティ、その愛情みたいなものが社会的に大きな役割を果たしていて、それがベースになって個人やその人の表現が許容されているんだと思う。

特に欧米は個人主義なんて言われるけど、何も自分だけを生きてるのではなくて、コミュニケーションの力が個人と個人をしっかりと結び付けている印象があるし、ヨーロッパに住んでた時に思ったのは、仕事より何より家族との時間や仲間との食事の時間・会話を大切にしているということ。その上での個人主義なんだと思う。


海外での宗教や地域コミュニティ、家族の絆みたいなもの。日本でそれに対応するもの、そういった社会的基盤って何なんだろう?って、いつも考えてしまう。

昔の日本では、時にはうっとうしい近所付き合いが地域コミュニティとして機能してたんだろうし、子供にとっては親・親族以外に面倒見てくれる大人として存在していたんだと思う。また情報の少ない中、お年寄りの貴重な経験からくる知恵に敬意を払ったり、移りゆく四季の中、時には厳しい自然と共にうまく生きていく知恵があったんだと思う。

それらのものが、時に鬱陶しい「世間」とワンセットで存在した。

でも経済の成長と共に、そういう大切なものを損ない続けてきた。そして、「世間」だけはしっかりと残しつつ、社会的基盤のない「個人」を目指して家族の単位は縮小し、見知らぬ人の集まりである都会だけが膨張して、地域コミュニティも崩壊していった。

それでも経済が成長してるうちは良かったんだと思う。今日より明日、明日より明後日、世界は少しずつ良くなる。少なくとも給料は上がっていく。経済的には希望があった。

右肩上がりの経済を前提にいい大学入っていい会社入って、ローン組んで家と車を買って結婚して子供を持って。こんな既存レールが成立しないことが明確になった今、個人としてどう生きたいのか考えようという方向は正しいと思うし、そうしないと生きていけない。

でも今の日本は、「世間」的な個人を縛るしんどさだけが存在して、それをベースで支える社会的基盤や思想もなく、経済的な希望もない。

そんな気がする。


個人を大切にと言いながら、結局は「自分だけ」を生きようとしていて、一方で世間的なものも気になって仕方がない。

そんな風に見える。


誰かにとっての優しさとして

何があればいいんだろ。

何があれば、ぼくの娘も含めて将来世代の子たちが自分を大切にしながらもリラックスして生きていけるんだろう。


社会的な基盤や思想がないのなら、せめて他人にとっての優しさとして自分が存在すること。これが一つの答えなんだと思う。


だから、今日も明日もぼくは娘とたっぷり遊ぶ。娘の嬉しいこともヤなことも気乗りしないことも自由に表現させてあげる。親はとことんまで付き合ってあげればいい。できる限り、「子供のそのまま」をめいっぱい受け入れてあげたい。

将来振り返って、「自分の子供時代、とにかく楽しかった。たくさん愛情をもらった」という記憶がその人を支えるはずだ。

それが、他人への優しさの基盤になるはずだ。


例えば子供を楽しませる。


他人への優しさに溢れた社会に向けて、そんな小さなものを積み重ねていくしかないんですよね、きっと。


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